引揚船興安丸(7079トン)で、敗戦の翌月の9月2日、第一次の引揚者7千人が仙崎港に上陸しました。
外地で悲惨な終戦をむかえた復員の軍人や一般の人々でした。
仙崎では、寺や学校が、引揚援護の事務所や救護所、宿泊所に当てられ、応急のバラック住宅も建てられましたが対応しきれませんでした。
仙崎や正明市駅(現長門市駅)付近の民家にも多くの引揚者を泊めました。
一方、仙崎港には、ここから故国朝鮮に帰る人々もあふれました。昭和21年末、仙崎が引揚港の役割を終えるまで、この港に上陸した人々は約41万人、ここから朝鮮に帰った人々が約34万人でした。
青海島育ちのマッサン