2012年10月18日

長門郷土文化研究会・歴史探訪の厚狭毛利家菩提寺・洞玄寺(1)

 昨日、長門郷土文化研究会・歴史探訪で、山陽小野田市の厚狭毛利家菩提寺・洞玄寺(とうげんじ) → きららガラス未来館(小野田焼野海岸)→ 宇部市のANAクラウンプラザホテル(昼食) → 宗隣寺 → 琴崎八幡宮 → 山口市の「道の駅きらら阿知須」等の歴史・文化等を学ぶ旅に出かけてきました。

 今日の山陽小野田市・旬の景色は、この歴史探訪のうち、厚狭毛利家菩提寺・禅(曹洞)宗・洞玄寺その1を、ご案内致します。

 昨日午前8時30分恵みの雨?の中、長門市役所前を出発し、9時30分に山陽小野田市にあります「厚狭毛利家菩提寺・洞玄寺」に到着しました。
 今回の歴史探訪では、サンデン交通さんにお世話になりました。


 山門到着.jpg


 
 山門に掲げてあります「洞玄寺表札」・・・歴史を感じます。

 洞玄寺表札.jpg



 厚狭毛利家菩提寺・洞玄寺の由来・・・洞玄寺の歴史HPより

 毛利家一門三席に列した毛利元宣が、寛永年中この厚狭の地に封ぜられ、厚狭毛利家と称するようになった。
 彼は、長光寺を菩提寺とし、父元康の法号(洞玄寺殿石心玄也大居士)に因んで洞玄寺と称した。

 初代毛利元秋(毛利元就(もとなり)の五男、島根県富田月山城主)、二代元康(元就の八男、出雲末次城主、島根県富田月山城主、備中笠岡城主、広島県神辺城主)以降厚狭毛利家一門の墓がある。また、初代元秋の持尊仏将軍(勝軍)地蔵が毛利家位牌殿の本尊様としてまつられている。

 爾来250年毛利家の庇護のもとに平穏に過ぎたが、明治2年長州藩を震駭した脱退騒動にあたり、時の住職実音が反乱軍に加担脱走したことにより洞玄寺は、形式上は廃寺となり、正福寺(大津郡より引寺)と名前を変えさせられた。
 その後、昭和44年、再び洞玄寺に復した。



 これから、その歴史的由緒のある「洞玄寺」に参拝します。

 参拝に向かいます。.jpg




 洞玄寺の境内・・・塔や鐘突き堂等があります。

 洞玄寺境内.jpg



 長門国利生塔跡 

 長門国利生塔跡.jpg



 長門国利生塔跡説明

 長門国利生塔跡説明.jpg



 鐘突き堂

 鐘突き堂.jpg



 洞玄寺本堂・・・堂々とした立派な本堂です。

 本堂.jpg



 本堂内・・・煌びやかな立派な施設が・・・さすがに、厚狭毛利家の菩提寺だけはあります。

 本堂内部.jpg



 煌びやか.jpg



 明日は、長門郷土文化研究会・歴史探訪・厚狭毛利家菩提寺・洞玄寺その2を、ご案内致します。

 青海島育ちのマーくん


posted by 青海島育ちのマッサン at 10:02| 山口 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 宇部市・山陽小野田市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック