2013年08月22日

山口県長門市東深川「近松道路公園」(2)

 今日の長門市東深川旬の景色は、8月19日(月)午後の「近松道路公園」その2を、ご案内致します。

 「近松道路公園」の石碑


 近松道路公園石碑.jpg



 
 長門市HPより
 近松門左衛門(1653−1724)は、江戸時代にたくさんの浄瑠璃や歌舞伎の脚本をつくった人です。
 主に、浄瑠璃は竹本義太夫のために、歌舞伎は坂田藤十郎のために書いています。その作品には、当時実際にあった事件をもとにした「曽根崎心中」などがあり、人気を博しました。
 作品の数は、浄瑠璃約100編、歌舞伎脚本が約50編。代表作に「国性爺合戦」「冥土の飛脚」「心中天網島」などがあります。芭蕉や西鶴とならんで、元禄の三大作家といわれています。

 近松は長門深川の生まれ

 近松の本名は、椙杜信盛。巣林子、平安堂などのペンネームが知られています。椙杜信盛の名が初めて出てくるのは、寛文11年(1671)、俳人・山岡元隣が出版した「宝蔵」という本で、近松の俳句が載っています。この本で、19歳の近松が京都にいたことがわかります。
 ではいったい彼はどこで生まれ、どこで暮らしていたのでしょうか。多くの近松研究者が調べましたが、今も近松の生まれた場所は謎につつまれています。

 ところが、ここ長門市には、古くから近松が深川の江良(えら)で生まれた、という言い伝えがあり、「江良はよいとこ近松生んで、柿もよいとこ、えらいとこ」と語り継がれています。
 それによると、近松は、江戸時代、江良に住んでいた椙杜(すぎのもり)という侍の家の出身ということで、今でも椙杜家の屋敷跡が残っており、江良ではこれを「近松屋敷」と呼んできました。また、近松の子孫という人が江良に住んでいて祖先の石碑を建てています。

 一方、近松が長門の人であるという言い伝えを裏づけるような記録もあります。江戸時代の終わり頃、有名な大田南畝(おおたなんぽ)という学者が「近松は萩藩の人」と言い、唐津市(佐賀県)近松寺には「近松は長門深川の人」という記録があります。ということで、近松門左衛門の出生の地はここ長門市の深川であることが有力な説となっています。

 ■近松長州説を考える(利重 忠氏)


 公園内は、近松門左衛門の作品にちなんで「国姓爺ゾーン」「天網島ゾーン」「曽根崎ゾーン」があり、石灯籠、小橋などが配置され、モウソウチクやモッコク、イロハモミジなどが植樹されています。

 「天網島ゾーン」の心中天網島の説明板

 天網島ゾーン.jpg



 「国性爺合戦」獅子が城内

 「国性爺合戦」獅子が城内.jpg



 近松道路公園の日本庭園

 近松道路公園1.jpg



 近松道路公園2.jpg



 近松道路公園3.jpg



 青海島育ちのマーくん







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posted by 青海島育ちのマッサン at 07:17| 山口 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 深川 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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