2016年11月17日

山口県長門市青海島・通地区「日露兵士の墓碑周辺を整備」

 今日の山口県長門市旬の出来事は、11月15日(火)午前の青海島地区「日露兵士の墓碑周辺を整備を、ご案内致します。

 12月15日(木)長門市湯本温泉・大谷山荘において、「日露首脳会談」が開催されることになり、通地区大越の浜に建立されている「日露兵士の墓碑」が注目され、県内外から多くの人が訪れています。

 しかし、@市道から墓碑に至る道の入り口に案内板がなく、A市道から墓碑に至る道は一部滑りやすい急な斜面で歩きにくく、B日露兵士の墓碑の説明板がないため、現地を訪れた方が困っておられました。
 このため、この15日に、@の入り口案内看板設置、Aの急傾斜の道の整備、B日露兵士の墓碑そばに説明看板設置が行われました。

 長門市による日露兵士の墓碑入り口案内看板設置

 日露兵士の墓入口案内板.jpg

 通まちづくり協議会」をはじめとする地域住民のみなさんが、斜面をスコップで削った後、木材とコンクリートブロックを設置して、手作りの階段が完成しました。
 道路整備工事1.jpg

 道路整備工事2.jpg

 道路整備工事3.jpg

 通まちづくり協議会の河野さん、長門市地域おこし協力隊・通地区担当の馬來さんも、いい汗をかかれました。
 河野さん.jpg

 馬來さん.jpg

 大越の浜
 大越の浜1.jpg

 大越の浜2.jpg

 日露兵士の墓碑へ
 日露兵士の墓へ.jpg

 常陸丸遭難兵士の墓碑
 (現在の墓は大正10年(1921)通村で建立)
 明治37年(1904)2月に日露戦争が起こり開戦後の6月16日、千人を超える兵士を満載した輸送船「常陸丸」は、対馬海峡でロシア艦艇の砲撃をうけて沈没し、ほとんどの兵士が船と運命を共にした。
 その兵士らの遺体が、遠く通浦大越の浜に漂流したので、浦人は遺体をこの浜に丁重に葬った。

 常陸丸遭難者の墓.jpg

 ロシア兵士の墓碑
 (現在の墓は昭和43年(1968)通地区の有志で建立) 
 明治38年5月27日、対馬海峡通過のロシア・パルチック艦隊を、東郷長官率いる日本連合艦隊が迎え撃った。意表を突いた日本艦隊の作戦でロシア艦隊は壊滅し、日本の大勝利となった。
 海戦の砲声は、遠く大津郡(現 長門市)までも届いた。
この時も、戦死したロシア兵士の遺体が大越の浜にあがったので、浦人は敵兵の遺体も、常陸丸の日本兵と同様、ねんごろに葬り供養を続けています。

 露艦戦士の墓.jpg

 長門市によって墓碑のそばに「説明看板」が設置されました。
 説明看板には、2つの墓碑が建立されるまでの経緯が、日本語と英語で紹介されています。

 日露兵士の墓説明.jpg

 日露兵士の墓英語説明(一部ロシア語).jpg

 通まちづくり協議会の新谷勇会長へのインタビュー
 共同インタビュー

 「日露首脳会談に向けて、これでまた環境づくりが一歩進んだように思います。現在は、毎日のように墓碑を訪れる方がおられますが、このように周辺環境を整備することで、より多くの方に通地区の歴史を知っていただければと思います。

 共同インタビュー.jpg

 フジテレビのインタビュー
 

 フジテレビのインタビュー.jpg

 新聞社のインタビュー
 新聞等のインタビュー.jpg

 安倍総理とプーチン大統領が一緒に、青海島・通地区・大越の浜に建立されている「歴史的な常陸丸遭難兵士の墓とロシア兵士の墓」にお参りされて、「日露の友好関係」を推進していただければと思います。

 青海島育ちのマッサン






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posted by 青海島育ちのマッサン at 17:56| 山口 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日露首脳会談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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